『33 の素敵な数学小景』というちょっと変わった、素敵なタイトルが付けられている書籍である。 ちょっと手に取ってみたくなるタイトルではないだろうか。原題は『Thirty-three miniatures』。 Jiri Matousek 氏の原著を徳重典英氏が翻訳されたものである。原著の副題には「Mathematical and Algorithmic Applications of Linear Algebra」と付けられている。日本語の方の副題は「フィ ボナッチ数、タイル張り、アルゴリズムを線形代数で眺めてみると…」となっている。これらの 副題から分かるように、本書は線形代数が応用される場面を種々のトピックで紹介する、とい う趣旨で書かれている。『33 の素敵な数学小景』のタイトル通り、各章ごとに1 トピック、全部 で33 トピックが紹介されており、各トピックはコンパクトに(最初の方は2~4 ページ、後半 でも8 ページ程度)まとめられている。この各トピックの分量は、原著者の序文によると、A4 版4 ページに収まる分量というのが目安で、これは大学での90 分授業にちょうどよい分量にも なっているとのこと。また、各トピックは(概ね)やさしいものから難しいものへと並べては あるものの、各々独立していて、どのトピックから読み始めてもよいように書かれている。こ の構造は本書をいろいろな意味で魅力的なものとしている。一つは、構えずに気軽に読めるこ と。ちょっとした休憩時間にでも手に取って手ごろな章を1 つだけ選んで読んでもよい。順番 に読んでいく必要はなく、ちょっと開いてみて面白そうな章を読み始めてもよい。また、時間 に応じて1 章だけでも、いくつかの章を続けて読んでもよい、という感じに読むこともできる。 しっかり時間をかけて深く理解しよう、という読み方をする場合でも、一つ一つが短くコンパ クトになっているので、腰を据えて時間をとるということへのハードルを低くできる。もう一 つは授業の中に入れ込む題材に利用しやすいことである。1 トピックの目安が大学の90 分授業 にちょうどよい分量ということであるが、トピックによってはもっと短いものもあるし、長めの ものでも説明する部分をかいつまめば、線形代数やその応用を扱う授業の中で、線形代数のこ ういう概念はこんなところにも役立つ、という例の紹介として使いやすい。実際、評者は昨年 度に1 年間だけの担当で、大学2 年次生向けに1 年次の数学を振り返りながら応用的なことを 紹介するという趣旨の授業科目を担当したが、線形代数の部分の題材として本書から数個のト ピックを使わせていただいた。(この授業の担当を引き受けたことの背景に本書が念頭にあり、 本書のいくつかのトピックを題材に選ぶことで、自分自身も楽しみながら講義の準備をするこ とができた。)
内容であるが、主に離散数学・組合せ論の題材が並んでいる(このラインナップは訳者による 付録A に各トピックの概略や線形代数のどのような性質が使われるかなどが概説されていて、 これを読むと全体を容易に見渡せるようになっている)のであるが、割と古典的で多くの人が よく知っているか少なくとも耳にしたことはありそう、というようなものから、本書を読むま で聞いたこともなかった、というマニアックな感じの題材まで、幅広くさまざまである。(聞い たことのない、と言っても、いずれのトピックもこれまでに知られていたか、もしくは、発表 されている結果の紹介であり、各章の章末にはその情報源についての情報も付けらている。)冒 頭の2 つ、ミニチュア1 とミニチュア2(本書では、各章ごとのトピックはそれぞれ「ミニチュ ア」と呼ばれ、各章はミニチュア1、ミニチュア2、のように数えられている)は日本語版の副 題にもあるフィボナッチ数列を取り上げており、この題材、特にミニチュア2 で紹介されるフィ ボナッチ数の一般項の公式は多くの人が知っていることだろう。しかしながら、ミニチュア1 の行列を使った計算法(とその計算量の説明)には(この種の話をこれまでに聞いたことがな ければ)新鮮な気づきがあり、ミニチュア2 のフィボナッチ数列の一般項の公式についての線 形代数的な解釈も、なるほど、と思うところがある。一方、ミニチュア3 に進むと、要素数n の集合中にm 個の部分集合C1,C2,...,Cm をとり、どの部分集合Ci も要素数が奇数、どの2 つの部分集合の共通部分Ci∩Cj も要素数が偶数、という条件を課すと、このような部分集合 の個数mはnを超えない、ということが(オッドタウンの住民が作るクラブという話として) 紹介されている。このようなことをよく聞き知っているという方は少数派なのではないだろう か。極値集合論の話題なのでその方面に造詣のある方はそうでもないかもしれないが、結果の 主張自体にも驚きがある。そして、さらに、この結果はちょっとした翻訳をすることにより、あ る形の行列の階数の評価によって得られることが説明され、ここでまた新しい驚きがある。し かも、このミニチュア3 は設定の説明から証明の解説まで全部含めて1 ページちょっとという 短さである。まさに「ミニチュア」「数学小景」と呼ぶにふさわしい作品と言える。この後に並 べられている残り30 個のミニチュアについては、ぜひ実際に本書を手に取って読んでみていた だきたい。どの作品も明快に、かつ、コンパクトにまとめられており、楽しみながら読まされ るだろう。
各ミニチュアの中で用いられる線形代数であるが、各ミニチュアごとに種々様々な事柄が使 われており、線形代数としての基礎知識の要求レベルはそれなりに高いようではある。先述し た評者の授業での題材としての利用でも、やはり1 年生で線形代数を学んだ後にそれをベース として次の段階の授業、というレベルでは(学生の反応を見る感じで)ちょっとレベルが高い ようでもあった。(評者の教えている相手が数学科の学生ではなく工学系の学生であるため、と いう面もあるが。)しかし本書、日本語版には訳者による付録として、必要となる線形代数の知 識を一通り概説されている。(線形代数だけでなく、付録B:集合と写像、付録C:代数構造、 付録D:線形代数、付録E:グラフ、付録F:アルゴリズム、計算量、のように概説がつけられ ている。)読んでいて「これはどうだったかな?」ということに出会ったときには、この付録を 一通り眺めれば理解の助けになるだろう。また、各ミニチュアを読みながら、使われている線 形代数の知識の背景はどうなっていたか、などを考え直したり調べたりしながら丁寧に読めば、 線形代数の再理解の機会ともなるだろう。
本書、実は評者は出版前に訳者からこの本の翻訳をしているということで、出版前の原稿を 読ませていただいたのがこの書の存在を知ったきっかけであった。原著者の研究分野や本書の 扱うトピックのいくつかにそれなりに近い分野で研究をしてきているのだが、本書の原著の存 在にそれまで気づいておらず、訳者から翻訳しているという話を聞いて本書の存在に気づいた のは幸運だった。『「訳者による付録」の前書き』の中で、訳者は「マトウシェックの本だから 面白いだろうとは思ったが、果たして実際読んでみたら、とても面白かったのである。あまり に面白くて全部読んだ。」と書いている。まさにこの文章が表しているように、一つ一つのミニ チュアの面白さに引き込まれ、次は何が書いてあるのだろう? と、どんどんと読み進めたい気 持ちにさせられる。これは、上述のように各ミニチュアが数ページの長さで、それぞれ独立す る形で並べてあるという構成や、幅広く選ばれているトピックの内容に依るのであるが、それ 以上に、それぞれのミニチュアに対するコンパクトで明快に本質的な部分を解説していく説明 力に依るのだと思う。原著者のJiri Matousek 氏であるが、原著の出版が2010 年、本訳書の出 版が2014 年5 月であるが、翌2015 年3 月に51 歳の若さで亡くなった。幅広く第一人者として 活躍されてきた氏の早逝が悼まれる。